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2012年5月13日 18時14分

石巻競馬場

 石巻にも競馬場があったことを知る人は、今は少数。
ものの本に「大正4年に始まった」とあります。設備は、馬の種別は、興味の湧くところですが、現在と比べても仕方がありません。
ところで場所はどこ?「蛇田村の牡鹿沼ありし所」と書いてありました。「牡鹿沼」とは初耳で、識者によると仙石線蛇田駅北側付近らしいです。馬産奨励で国から補助金が出ました。春と秋に開催。昭和4年、宮城電鉄の線路用地にかかって閉鎖しました。

現在の蛇田駅北側の様子
 次いで水押地区に移ります。昭和6年から同11年の秋までの開催でした。陸軍工兵隊演習地になって幕を下ろします。
再々開は戦後です。昭和24年から34年までありました。場所は雲雀野海岸。日本製紙石巻工場の排水処理施設と海岸道路にまたがるあたりです。1周1千㍍、いわゆるダートコース。復活開催では320頭の馬が新潟、山形県からも来たそうです。
 
     水押地区の様子         日本製紙石巻工場
 はじめ県営、後に市営の春秋開催となりましたが、年を追って赤字がかさみ、ギャンブル批判もあって閉鎖したそうです。鳴子の川渡地区と誘致を争った競馬場でした。地方競馬は現在でも厳しい経営で、いち早い撤退は正解だったのでしょう。

※今回の「ちょこっと話」の場所は黄色で示しています。


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2012年5月11日 13時54分

栄存(えいぞん)法印

 江戸期は石巻湊村の話です。その領主と霊験あらたかな法印との確執話。とても有名な話で気が引けますが…。
 
領主は笹町重頼、法印は栄存。栄存は重頼の養父笹町但馬に招かれ牧山の長禅寺を再興しました。洪水を呼ぶ祈祷で北上川河口の土砂を一気に押し流す法力をみせました。
 人々の信望を集める栄存に跡を継いだ重頼は嫉妬、島(江島)流しにします。栄存は島で呪い続けたそうですが、笹町家の無事を知りつつ死んだそうです。その間際、栄存は島民に死体は逆さに埋めよと言い残したのです。ある夜、厠に立った重頼の前に逆さになった栄存が現れました。重頼は刀を取り切りつけましたが自分の太ももを切り、騒ぎに駆けつけた妻、息子安頼を切り殺してしまいました。その後、重頼は狂い死に、二人の娘も変死し笹町家は断絶したそうです。死後50年たち分骨して建てたのが牧山の栄存神社です。
 
栄存神社
 栄存は戦国の武将片桐且元の孫で政宗の知遇を得た真言密教の僧だそうですが、高僧なのに恨みの深さは尋常ではありません。湊地区の大火では栄存を助けた高橋という家だけが焼失を免れたそうです。また安頼の墓(湊・慈恩院)が倒れたままです。たたりを恐れて誰も直す人はいません。

倒れたままの安頼の墓
 一方、仙台に笹町家が残っており江戸も後期、笹町家の門口に僧が現れ「まだ生きておったか」と言い残して姿を消したという話もあります。人の恨みはそれだけ怖いという話でしょうか。

※赤い印の部分が今回の「ちょこっと話」に出てくる場所です

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2012年5月08日 18時29分

布施辰治

法曹界人なら「知らない」とは言えません。
戦前、戦後を通じ弱者側に立ち法廷で社会運動擁護の論陣を張った雄です。明治13年、石巻は蛇田に生まれ、昭和28年死去。享年73歳。
「生きべくんば 民衆とともに 死すべくんば 民衆のために」。
彼の座右の銘です。トルストイの影響を受けたとされ日本人はもちろんのことですが朝鮮人、中国人のために奔走しました。左翼活動家が一斉検挙された3・15事件(1928年)、戦後の三鷹事件での弁護が有名です。
上記の座右の銘が刻まれた石碑(あけぼの南公園内)
 生涯、人道主義の立場で権力と対峙しました。
しかし、故郷では理解されず「アカ」呼ばわりされて親せきの人は肩身の狭い思いもしたようです。忘れられた存在でしたが昭和50年代後半、市民有志が顕彰活動を起こしました。それが全市的な運動になって故郷に顕彰碑が建ちました。札幌に住むお孫さん(鉄治氏)から4千5百点に及ぶ遺品が石巻市に寄贈されました。石巻文化センターに収蔵され辰治研究のメッカになりました。彼の出身校明治大学を中心に多くの研究者が訪れていました。同センターは津波被害を受けましたが遺品類は無事でした。

 2004年、日本人初の大韓民国建国勲章が彼に贈られました。
でも、ほとんどの教科書に彼の名前は出て来ません。民族を超えた人類愛の人なのに。

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2012年5月03日 16時55分

ほまち

 「帆待ち」「外待ち」と書く。
このあたりでは「ほまちかせぎ」と使われることが多く、「ほまづ」と濁ります。方言ではなく、国語辞典にも「出帆を待つ間の船頭さんの稼ぎ」「臨時の収入」「へそくり」と載っています。多く東北地方で言われてきた言葉と但し書きがついて。相馬に行くと「小遣い」「駄賃」の意味となるそうです。
 
 江戸時代、運賃積み船の船頭らが運送契約以外の荷物を載せて内密の収入を得ていました。不正行為です。ただ、買い積み船の北前船では船主の了解の下、船の余積みを利用して得た運賃を低賃金の補いにしていたそうです。こんなことから臨時に私的に得る金銭、物品、内緒の金、へそくり、小遣い稼ぎの意味となりました。
 
 これは帆船が潮や風を待つため寄港したところで、その地方の積荷をすることから起こります。船頭さんらは意外なところで小遣い稼ぎをしていたということです。他に「ほまち田」「ほまち雨」という言葉もあります。意味は想像がつきます。

2012年5月01日 15時47分

月の浦

 慶長18年9月(1613年)「サンファンバウティスタ号」という日本製初の西洋型軍船(500㌧級)がここを出帆しました。スペインとの交易を目指し仙台藩主伊達政宗が建造した船です。ただ建造の地はここではなく雄勝の唐桑だったという話もあります。
 
支倉常長の像       航路図の石碑
 特使支倉常長ら一行180人を乗せた「サンファン号」は太平洋を横断、メキシコ経由でスペインに渡りました。国王フェリペ3世に謁見、ローマ教皇パウロ5世にも会って対西貿易へ後押しを願いました。しかし、そのころ江戸幕府はキリスト教を弾圧中で相手側が警戒、計画は成就しませんでした。
 
     月浦港         月浦の港(1mのかさ上げ)
 この間の事情を語る日本側資料が皆無の中、船の寸法書だけが見つかり復元船が県民の寄付で平成5年5月に進水し、石巻渡波に係留施設「サン・ファン館」が出来ました。今のところ、津波で破壊された「復元船及び施設」の再公開時期は未定です。

 常長の帰とはフィリピンまで「サンファン号」で、そこからは別の船で帰りました。元号が元和と変わった同6年(1620年)のことです。7年間の大遠征でした。「サンファン号」はその後スペイン軍艦に、ローマで洗礼を受けた常長は死ぬまで棄教しなかったそうです。

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